ディベーター
■佐藤温重(東京医科歯科大学教授・日本動物実験代替法学会)※肩書きは1996年当時
■野上ふさ子(地球生物会議)
■司会: 石田勲(朝日新聞記者)
動物実験代替法について(※注)
司会 最近の動物実験代替法について、これは実際に動物実験に代わるものなのか、どういったものを代替法と言うのか、手短にご説明いただきたいと思います。
佐藤 動物実験代替法というと、いかにも動物に代わるものということですが、実際はその代わりはなかなかないだろうと思います。動物にこれから開発される薬を投与した場合に、いろいろな反応が見られるわけですが、それに代わるものは全体のうちの一部を断片的、部分的に見るような形のものなのです。
(表:動物実験代替法について)
代替法は、このパネルに示したように、生物学的な代替法と非生物学的代替法とがあります。生物学的な代替法で、たとえば細胞培養の場合では、われわれの体の中から取り出された細胞を試験管の中に育てておいて、それで試験するというやり方です。これは土台、生体の全体像を調べるのは難しいわけです。
それから非生物学的代替法で、化学構造や活性を調べる試験では、いままで膨大な化学物質が合成されており、それらの作用はかなりわかっています。こういう化学構造のものはこういう作用があるということは、コンピューターでかなり類推がされているようになっています。
しかし、そのことだけで直ちに、人間に安全という訳にはいかないでしょう。
それで私たちが考えている代替法は、なるべく人間に似せたものにしようということで、人間の体の中から人間の細胞を取り出して、これを大量に試験管の中で増やして、それをもう一度組み立てて、人間と同じような組織を作る、たとえば皮膚を取って、試験に中で培養してもう一度組み合わせて皮膚のように使う。そうすると、たとえば化粧品のような局所に対して毒性を示すようなものの安全性、毒性が調べられる
わけです。
代替法には、いろいろなものがあって、それを適当に組合わせると、一つ一つは断片的で部分的であるけれども、全体的に組み上げると、化学物質の毒性や有用性がある程度わかってくる。
しかし、それはどこまでもこの物質が有用かあるいは危険かと言うことを選別する程度にすぎないと思います。やはり、人間に投与する前には、動物なりあるいはボランティアでちゃんと調べないと、全体の一般の人に投与するには至らないと思います。
野上 代替法について、私が考えていることは、少し概念が違っています。確かに先生がおっしゃる3つのR(置き換え、数の削減、手法の洗練)は、緊急避難的な意味では、動物の犠牲をかなり減らせると思います。また、データベースを作って重複実験を避けるとか、研究データの公開と誰もがそれにアクセスして情報を入手できるというシステムを作るとか、既存のシステムの改良だけでも、かなり犠牲になる動物の数は減らせるだろうと思います。3つのRはそういう意味でいいと思いますが、それはあくまで緊急避難であって、根本的解決ではないと思います。それは、この方法では、結局どこかで全体的な動物を使わなければいけないからです。
(表:「広義の動物実験代替法」)
私が考えている代替法というのは、広義の代替法です。それは、私たちが生きている社会そのものの認識の仕方、とらえ方について考え直す時代にきているのではないかというところからきています。たとえば、医学について言えば、人間の身体を一つの物質として研究するというやりかた、この代替法の方法もそうですね。あくまで小さな部分を取り出して、その限られた部分のみを分析して、その結果を全体に還元し
ていくという方法論が、デカルト以来の近代の合理主義の考えですが、そこを反省しなければいけない時にきているのではないか。
人間の病気や、いろいろな精神的な症状は、身体と精神のアンバランスからきているわけですから、人間の体と精神を統合するような医学が必要なのではないか。それからもう一つは、個体と環境のバランスを、近代の医学は無視しているのではないかということです。
人間の病気は、その人が突然ある特定の病原菌なり病因によってなるのではなく、その人の生活やライススタイルあるいは環境、ストレスなど、さまざまな複雑な要因によって病気が起こっていると思います。特に現代の文明社会の病気はほとんどそうではないかと思います。それなのに、いつまでも前時代的に、分析的に、あるいは部分をもって全体に還元する還元主義的な医学研究が主流を占めていすぎると思うのです。そういう意味で、それぞれの個体の身体と環境の調和をはかるような研究、そこに転換していかなければいけないのではないでしょうか。
それから、西洋医学と東洋医学の長所がそれぞれあります。確かに西洋医学は日本の主流ですけれども、その欠点もいろいろあったと思います。医薬品の副作用や実験における失敗などは枚挙にいとまがないわけです。それに対して、私たち日本人が長らく伝統的な世界に生きてきた時は、動物実験のない医療で生きてきました。動物実験医学が日本に導入されて、これほど盛んになったのは、明治以降百年、特に戦後の話です。それ以前、日本人はしょっちゅう病気になっていて満足な医療もなく、民族として絶滅しかけていたのかというと、そういうことはないと思います。何百年、何千年という単位で培われてきた経験的な医学も大事にして、それぞれのいいところを取って、人間・動物・環境がみな調和した世界の中で、改めて医学のあり方を考えていかなければならないのでは、と思います。
佐藤 僕も、その全体としてということの重要さはよくわかっていますし、私も試験管で細胞培養していっていつも思うことは、全体の中の部分という考え方を忘れてはいけないと心がけてはおるところです。それから、人という種は、地球の中に生きているということで、全体的な把握も必要だと思います。東洋医学と西洋医学の長所ということも、その通りだと思います。
しかし、しばしばこういう議論の中で「経験的にこれは安全だ」と言われることですが、西洋医学の中で、あるいは近代的なものの考え方の中で、それはある意味で経験論の否定であったと思います。これは長く使っていて安全だったということは、しばしば誤りを犯す恐れがあります。たとえば、その人の主観であったり、あるいは思いがけない偶然のことであったりということがあるわけです。それで、動物実験を含めて、西洋的な分析主義というのは、そこに実証的なあるいは客観的な手法をもってきたというところに大きな特徴があります。僕はそういう経験論で物事を進めたら、非常に危険であると思います。そういう意味では、動物試験は一つの実証のやり方であると思っています。
生命の尊厳と倫理について
野上 私は、すべての生命は、基本的に生存の権利というか、価値があると思っています。この世の中に、無用なもの、存在してはいけないようなものは基本的にないわけで、私たちと同じように、この地球に平等に生きている存在ですから、その価値は等しく貴ばれなければいけないと思います。
その中で、やはり最低限、やってはいけないこと、してはいけないことまで人間がやっているのではないかということが問題なのです。つまり、動物実験の残酷性というもの、私たちが動物実験と言えばストレートに、余りに残酷ではないかと思うその根拠ですね。それは、人間が倫理としてやってはいけない範囲を越えているという考えなのです。
佐藤 常識的に言えることは、生物学が明らかにしたことというのは、生命の一元性ということ、それはDNAとたんぱくというもので、等しく共通の基盤にあるということは、生物学者や医学者が一番よく知っていることです。従って、動物や植物も含めて、そこに生きるとか、あるいは生きる喜びを感じるとかあるいは苦痛を与えられない権利を持つことは、当然だろうと、私も思っております。
野上 現在の動物実験がその規範を踏み外しているのではないかということです。その一つは、冒頭に述べましたように、このような動物実験の実例を見ると、やはり余りにも残酷・無益ではないか、そういうものを一つ一つ検証していくことが大事だと思っています。
確かに科学というものは、実用性を抜きにして、真実を知りたいとか、無限の好奇心をそそるものがあると思います。それは医学だけではなく、原子力開発や宇宙開発でもそうだと思います。しかしここで言いたいのは、それもすべてお金が必要である、あるいは市民の同意が必要であるということです。そこに当然、倫理の問題が出てきます。ですから、幾ら研究者が実験をやりたいと言っても、倫理的に許されないものがあるということなんです。
司会 今日はお二人からさまざまなご意見を出していただきましたけれども、視聴者の皆様はどのようにお感じになっているでしょうか。今日の話が、動物実験を考える上での参考になれば幸いです。
(※注)動物実験代替法
2005年の「動物の愛護及び管理に関する法律」の改正により、初めて動物実験の「3R」(苦痛の軽減、使用数の削減、動物を使わない方法への置き換え)の原則が明記された。ちなみに、1973年法以来、「苦痛の軽減」は義務であり、2005年法において「使用数の削減」「動物を使わない方法への置き換え」が努力規定として追加された。
動物実験の是非を問う(その1)
動物実験の是非を問う(その2)
動物実験の是非を問う(その3)