朝日ニュースター ザ・ディベート 1996年8月31日放映
動物園の是非を問うディベート(その1)
ALIVE 1996.10 No.5 より
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地球生物会議ALIVEでは、1996年の発足当初からズーチェックという活動に取り組んできました。劣悪動物園の飼育改善を働きかけ、動物園のあり方を問うこの活動は新聞、雑誌、テレビ等のさまざまなメディアで紹介されましたが、その深い意味まではなかなか論じられることはありません。
当会のズーチェック活動10年を振り返る意味で、1996年に放映されたディベートを、ここに掲載しました。
(2006.7.29) |
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出席:
中川志郎(東京動物園協会理事長
元上野動物園園長)
野上ふさ子(地球生物会議代表)
司会:石田勲(朝日新聞記者) |
(ナレーション)
トラやクマが同じ場所をぐるぐる回ったり、ゾウが鼻を振り続ける・動物園でこんな光景を目にしたら、それは動物が精神的ストレスを感じている証拠だという。ヨーロッパではこうした異常行動を調べ、劣悪な飼育環境を告発し改善を求めるズーチェックといわれる運動が盛んに行われている。
7月下旬、そのズーチェックが日本でも行われた。イギリスの動物園調査官らが日本を訪れ、関東から四国にかけて10カ所の動物園を調査した。調査した動物園の中には、ツキノワグマがよだれを垂らしながら首を左右に降り続けたり、サルが毛をかきむしったりと、さまざまな異常行動を確認したとしている。この調査に基づき9月には日本政府や各動物園に具体的な改善策を求めるという。
上野動物園など自治体が経営する大きな動物園では、動物の飼育環境を改善するため、各地の動物園に散らばっている動物を種類別に1カ所に集め集団で飼育することによって、より自然な環境づくりをする「ズーストック計画」などが試みられているが、企業や個人が経営している小さな動物園では、動物達の飼育環境はけっして良好とはいえないのが現状である。また、それら虐待される動物達を守る法律は今の日本には存在しない。
果たしてこのままの状態で日本の動物園はいいのだろうか。動物園はこれでいいか。本日はこのテーマで論じあっていただきます。
(ディベーターの紹介)
◆中川志郎「大都市に住む人間は、1日の生活の中で平均およそ7種類の動物にしか遭遇しないとの報告がある。これは自然界に生きる動物の中では異常に少ない数字で、我々はそれだけ他の動物を排除した生活空間に生きている。いろいろな動物に会える機会を与えてくれる動物園の存在は必要であり、絶滅の危機に瀕している動物を守るという意味でもその存在意義は高い」
◆野上ふさ子「日本ではほんの数カ所を除いて、ほとんどの動物園で、大変劣悪な飼育環境の中に動物達が置かれている。自然のシンボルである野生動物が動物園という牢獄の中で、惨めな姿をさらし者にされていることは、私達に誤った自然観や生命観を植え付けてしまう」
◆司会・石田勲「医療・環境問題を担当し、野生生物の保護やダム、ゴルフ場などの開発のあり方について取材を続けている」
動物園の起源は
石田 まずはじめに動物園に対する基本的な考え方を、お二人から手短にお願いします。
中川 基本的に動物園というのは、さかのぼってみると3000年くらいの歴史があります。という事は3000年前から人がそれを必要とし、それを作ってきた、その事実が良いか悪いか言うことを度外視しても、ずっと続いて今に至っている。その過去の歴史を考えなければいけない。
現在の動物学のいろいろな知識、あるいは環境に対する知識は、当たり前のことのように事典に書いてあったり、図鑑に書いてあったりします。しかし、それをどうやって人々が手に入れたか、それをどうして人間の文化の中に取り入れてきたかと考えてみると、最初は人間と動物とは一緒にいて分け隔てがなかったのですが、1万年前に人間が文化を取り入れるようになってから、人間が動物を排除するように変わってきました。そうなると動物のことがわからない人が増えてくるのですね、そんな時に何か動物のことを知らなければ自分の生活が成り立たない、動物を排除しながら、しかし動物と離れていては成りたたないということが起きてきたのです。
それからどうなったかというと、まず、人間は安全な都市にいて、その外に出て動物たちをどんどん殺した。そして、殺したものを集めてきて動物学というものができたのです。植物を採集する、動物を採集する、それが元々の博物学というものの基礎ですね。たとえば明治時代に、シーボルトなど、たくさんの外人が来て、日本からたくさんの動物を殺して持ち帰った。ある意味で日本の動物学の基礎はそれによって築かれたと言われているわけですね。そういうことの結果として動物学の基礎ができた。
しかし、動物の生きている姿、生活はこれではわからない。これをどうしようかといったときに生まれたのが動物園なのです。動物園というものが連綿と続いてきたのは、生きたものをより良く知りたいという、人間が動物たちと決別してからの大きな願望であったし、それがなければ結果として動物を排除して人間が動物と仲良くする術がなくなってしまうんですね。
言うならば動物園というのは、排除してしまった動物の国から来ている大使のようなものです。だから飼育係は言うならば大使館付き武官とか、大使館付き何とかというように、それを遇するものだという基本的な考え方があります。
もう一つ言うと、上野動物園に僕らが入ったときの園長さんだった古賀さんがこういうことを言っているのですね、「動物園というものに終わりはない」と。これは、全ての文化施設と同じように、(動物園も)常に動いている、それは人間がベターだと思う方向に動いているのです。ですから、今の時点だけを取りあげて全てを論ずるのは難しいのであって、膨大な過去と、これからどうすべきであるかという中で物事を論じないと、ちゃんとしたものが見えなくなってしまうのではないか。
だから、動物園は歴史的に見ても現状から見ても将来にわたってみても、人間の世界には非常に重要な役割を持つ施設だというふうに考えるわけですね。
石田 動物園の歴史から、動物園の意義、役割をお話しいただきましたが、それでは野上さんは動物園に対してどのようなお考えをお持ちでしょうか。
野上 現在の動物園は、やはり近代の植民地支配に起源があり、欧米の人々がいろんな世界に視野を広げていくなかで、動物や植物を本国に収集しようという、いわば帝国主義的な政策から発していると思います。ですから、近代の動物園や動物学は人類の英知というよりは、欧米諸国によるアジアやアフリカ、中南米などの植民地支配の中で起こってきたものだと私は考えています。
膨大な動物学の知識と言っても、それはあくまでそう言う立場での限定された知識であると思います。たとえば、動物園がない時代、あるいは、未だかつて動物園を存在させたことのない文化、そういうものは世界中にたくさんあります。私自身アイヌの文化を研究してわかったことですが、アイヌの人は家畜も動物園というものも全く持たなかった、それにも関わらず動物に関する知識はものすごく深いものがあります。ですから、人類に普遍的に動物園が存在し、これからも必要であるというふうには私は思いません。
それから、現在の動物園の大部分は、動物園自体が動物虐待の場になっています。たとえば、野生の状態であれば、動物たちは非常に広いテリトリー(生活領域)を持ち、自然の中で自分で生活をしながら食べ物を探したり、寝る場所を探したりして、生き生きと生活しています。その動物たちを、野生の本来の生息地から捕まえて、狭い牢獄のような檻の中に入れてしまう。その檻には隠れ場所もないし、遊ぶ場所もない、そして一日中人目にさらされています。
そういうさらし者にされている動物たちを見て、私たちは楽しいとは感じられないでしょう。現在ある動物園は、見せ物的なものであると同時に、人間が自然を支配するシンボルとして作り上げてきたものであって、今の時代にそぐわないものになっていると思います。
歴史は常に変わっていますし、自然についての見方も変わっています。かつてはそういう時代もあったけれども、これからの新しい動物園のあり方については根本的に変わっていくべきであると思います。野生動物を捕まえてきて見せ物にして、人間がそれを高見から見物するというあり方ではなくて、やはりどのようにしたら野生動物が私たち人類と一緒に生きていけるのか、そういう共存の道を探るための場所でなくてはいけないと思います。
石田 動物園は見せ物小屋的な要素があるのではないか、かつてそういう歴史があったとしても、これからは変わって来るのではないかというお話でしたけれども、どのようにお考えになりますか。
動物園の存在意義とは
中川 動物園の発祥は二つあります。、かつて、16世紀は動物殺戮の時代でした。17世紀は動物を檻に閉じこめた、これはメナジリー(見せ物動物)と呼ばれました。しかし、やがてそういうものに対して大きな反省が起こって、これではいけないという方向に変わってきたのです。その中で、動物の生態学というものが一緒に起こって、ロンドン動物園のように、動物園の中で動物を実際に見た上で動物の生態や生理についていろいろなことを勉強する場となった。そこからさらに、野生ではどうなのかというふうにフィードバックして、それに沿って動物園も変わりつつあるわけです。
先ほど動物園は動物を檻に閉じこめた牢獄だという話がありましたが、動物を見るときに我々が犯してはならない誤りは、自分の目で見たことだけで判断してはいけないということです。例えば人間のようにあちこち歩き回って自由に食事ができてそれがいいんだという考え方がさっき出ましたけれど、基本的には、動物の世界には動物の世界の暮らし方があって、全て人間の考え方や人間の生理、人間の基本的な立場で判断すると誤解をすることが良くあるので、そのことは、厳に慎まなければいけない。
幸福だとか幸福でないとかいうのは、基本的にはその動物の立場に立って、人間の立場から動物を見るのではなくて、動物の生態を本当に知った上で考えないと、実際には幸福なのか、幸福でないのかというのはわからない。それは、例えばいいマンションに住んで、いい生活をしている人が幸福で、三軒長屋に住んでいる人は不幸だというふうに言えないのと同じなのです。
ですから、そのところはかなりの部分はおっしゃることも良くわかるんですが、しかし、それが全てだと決めつけてしまうと、人間の文化というのは成立しないのです。要するに、人間が人間のために作っている施設が文化施設であって、動物のため、あるいは植物のため、あるいは何のためというふうに考えられるようになったのは、もうごく昨今なんです。圧倒的に動物が絶滅するようになってから初めて人間は気が付いているのです。気が付かないよりははるかに良いんだけれど、その過去にとらわれていると本当のところが見えなくなってしまう。その辺の所は実際にその動物にとってどうなのかということを見てあげる、そういう立場・目が必要かもしれません。
野上 動物の生態について私たちが動物園で学べることというのは、ほとんどないように思います。例えばそこにいる動物の形や大きさはわかります。あるいはぐるぐる回っているとか、そういう程度のことはわかりますが、その動物が生息地でどうような生活をしていたか、あるいはどのような環境にあって、種としてどのような文化を営んできたか、というようなことについて動物園で実際に学んで、豊かになったという経験は、私にはないんですね。動物園はあくまで見せ物、あるいは標本の展示にすぎなかったと思います。
それから、動物福祉の問題があります。動物は生息地で種として存在する場合と、囚われて個として存在する場合がありますが、個として囚われている動物を福祉的な立場で見るということは、今の時代の人間の責務だと思います。アニマル・ウェルフェアは、動物の福祉、幸福ということを意味していますが、それは私たちができるだけ動物の本来の生態について学んで、その上でこういう環境は動物にとって問題ではないか、動物を苦しめているのではないか、ということが当然類推されるし、知識として出てくるわけです。
ですから生態学についての知識と動物の福祉についての知識は表裏一体のものでなければいけないんです。しかし、現在の動物園がそういうものを満たしているとは、私には全く思えません。
それから、動物保護法の制定があります。先ほどヨーロッパは動物の大虐殺の上に、今それを反省しているとおっしゃいましたが、確かに欧米諸国では動物虐待が非常に凄まじい時代があったと思います。だからこそ、ヨーロッパ諸国ではそれに対する歯止めとしてさまざまな法律や基準を作ってきているわけです。
野上 イギリスでは、英国動物園免許法という法律が1981年に制定されていますが、日本にはこういう法律は全くありません。この法律の特徴は、動物園を設置することが地方自治体の許可制になっていることです。しかも許可をするにあたって、さまざまな事前審査を行います。情報公開も行う。その動物園がその地域に必要かどうかということについて、地域の人たちの参加もあるわけです。それから専門の獣医師やいろんな立場の人たちが動物園の設立について意見を出しながら設置を認めるかどうか決めていくという、かなり開かれた制度であると思います。
それからさらに動物園が設置された場合、その運営についてもいろいろな制度があります。たとえば、そこにいる動物が虐待されていないか、動物の福祉が充分に満たされているかどうか、もちろん人間の安全や衛生上の問題もありますが、そういうものについて査察する制度を持っています。そして充分でないというものが発見された場合には、改善命令を出すことができる。さらに、改善命令が出されてかつ改善されない場合には、認可の取り消しもあり得る、あるいは罰則もあります。最低これくらいの法律があって初めて適切な動物園の運営が行われるとみなされているわけです。
現在の日本の動物園については、このような法律がないこともありますが、あまりにも劣悪な施設が多すぎるということは、中川さんもお認めになると思うんです。ですから、現在ある劣悪な施設をどのようにするか、それについて動物園の側に立っていた方々はどのような改善方法を考えていらっしゃるのか、それをむしろお聞きしたいところです。
(続く)
動物園の是非を問う(その2)
動物園の是非を問う(その3)
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